2013年2月28日、東京都武蔵野市吉祥寺で深夜二時頃、アルバイト女性の山田亜里沙さん(22)が殺害された事件で、山田さんを刺した二人のうち、3月2日に逃走中の共犯者(18)が確保された。(先に逮捕された少年はルーマニア人で17才)

 いずれも少年法に守られており、氏名は公表されていないが、Twitterなどではルーマニア人少年の名前が特定されている。

 若者の住みたい街N0.1と冠が付く街・吉祥寺。
学校施設が多く、若者の街でありながら、落ち着いた個人経営の店が多く、井の頭公園に代表されるように繁華街と豊かな自然が共生して幅広い年齢層に愛される街だ。

 ここで突如起きた深夜の殺人事件。被害者と加害者に関連がなく、通り魔的な犯行である事が分っている。犯行動機は「遊ぶ金欲しさ」の短絡的な思いつきの犯行だという。

 この事件を聞いた時、人ごとではない、と思った。
何故なら、私もこの事件現場のすぐ近くで「通り魔体験」をしているからだ。
それは中学生の頃だった。事件現場から目と鼻の先にある本町四丁目に住んでいた私は母と買い物に出かけた。夕刻過ぎだったと思う。

 東急の地下食品売り場で最後の買い物を住ませた後、地上に出て帰路についた。
と、言っても東急から当時の自宅まで女性の足で歩いて15分程。いつもの風景、いつもの人の流れに乗って母と私は年末の買い出しで賑わう繁華街から住宅街に向いて歩き出した。

 しばらくして母が私の手を握って来た。母の方から手を握って来る事はないので驚いて顔を上げると、強ばった顔で母は呟いた。「誰か、付いてきてる」振り返ると電信柱の陰に若い男が立っている。灰色の帽子を目深に被り、鼻と口しか見えない。灰色のジャージにベージュのズボン。
無表情で無機質な風体に私は本能的に恐怖を感じた。

 緊張しながらしばらく歩いて振り向くと、また物陰に隠れる。俯き加減の顔からは何も表情が読み取れない。
不審な様子、と言えばそれまでだが、買い物帰りの女二人を戦慄させるには充分なシチュエーションだった。私は「何かされるのか」「どうしたら良いのか」と思いめぐらせながら、何度も頭に浮かんだ言葉は「何故私が」「何故私たちが」だった。

 通り魔の犠牲になって、あえなく命を落とした犠牲者達は、きっと同じ事を呟いたに違いない、といつも思う。目立つ事をした訳でも人から批難される事もしていない。平凡にその日の買い物を終えて、歩く普通の親子だ。

 それなのに何故。沢山の人達の中から
私達に目を付けたのか_今考えても分らない。
「このままでは家にまで付いて来られる」「このまま家を通り過ぎるとますます人気の無い所へ行く」正しく万事窮す_私は混乱していた。すると母は突然、目の前にあった酒屋へ飛び込んだ。
「助けて下さい、変な人が駅からずっと付いて来るんです!」酒屋には帰り仕度をしていたアルバイトの学生が居た。彼は我が家によく配達に来ていた。彼は私たちの必死の形相にまず、「変な顔」をした。そうだろう。親子連れを追いかけ回す不審者というのは聞いた事がない。「それじゃ、僕が家まで送って行きましょう。ついでですし」明るい返事に拍子抜けしながら、安堵する母と私。

 三人連れは宵闇が迫る住宅街を歩く。吉祥寺は今はアパートや低層マンションが増えたが、私達が住んでいた時はまだ敷地の大きな家が多く、日が暮れるとひっそりしていた。
直ぐに学生の顔つきが険しく変わった。
何故なら灰色の男は数メートルの等間隔をとって、ぴったりと付いて歩いて来るからだ。
もう物陰に隠れる事もなく、どうどうとすぐ後ろを歩いている。

 私たちの加勢を恐れて逃げる事も無く、むしろチームワークのように隊列に“参加”して来た。
私と母の疑惑は確信に変わった。「あの灰色の男は私達を“殺る”つもりなんだ」私が感じた本能的な恐怖は不審者から発せられた無言の“殺意”を感じ取ったからだった。

 罵り、叫び喚く男の怖さよりも、“殺意”を持った男の沈黙の恐怖と言うものをその時初めて知った。
話が長くなるので(私の打ち明け話はこのブログの趣旨に添わない)この辺にして、結局、辻角に学生が見張り役として立ってくれた。
辻角から何件目かが私の家だ。走って入れば男はどの家に入ったか分らずに見失うだろうという学生の作戦だった。

 私と母は辻角から脱兎のごとく走り、家に飛び込んだ。
私は家のドアの錠を手が震えて掛けられなかった。
サッシの取手も震えて降ろす事が出来なかった。警察に電話をする時も指が震えて中々かけられなかった。「強盗に襲われそうな家族のドラマ」のように簡単に戸締まりなんか出来なかった。父も兄も不在で、まんじりともせず一夜が明けて、母と私は恐る恐る酒屋に出かけた。

 酒屋の学生は青い顔をして、「あいつを待ち伏せして、腕を掴んだ、そしたら、あいつ、ナイフ持っていました。俺に見せびらかして「あの人を刺そうと思ってた」ってハッキリ言いました。俺が「警察に行こうな!」と叫ぶと逃げて行きました」と恐怖の体験を語った。男が逃げた後も警官が来るまでかなり長い時間、辻角に立っていてくれたらしい。

 「あの人」とは誰なのか。
私なのか母なのか。それともあの男の中にいる妄想の人物なのか。それは私にとって永遠の謎だ。

 その時まで転勤族だった私が住んだ家は社宅か借り上げ社宅。借り上げ社宅とは会社が転勤先で転勤者に社宅が用意出来ない時の為に会社が社宅用に借りる住宅の事だ。
私達家族が東京に転勤してきた時は、父が勤めていた会社の東京本社への配属ラッシュで社宅が空いていなかった。
やむなく逆に地方に転勤が決まった吉祥寺に住んでいた社員の住宅を会社が借り、私達に貸し出したのだ。

 明治時代の動乱期に名前が残る名家だった家で吉祥寺でも高級住宅街の中にあった。
中学のクラスメートは裕福な子女が多かったが、高い率で家庭が崩壊していた。
家庭崩壊の理由は新興宗教、家庭不和、親の事業の失敗...そんな中で、私の家も父親が社内の派閥抗争に破れ、左遷の憂き目に遭う。役職が外れると、借り上げ社宅から出て行かなければならない。
社宅の貸し出しは役員の特別待遇だったからだ。「またか。家はどうなるんだ?」兄と私はウンザリしながら「この街を出る事になるんだな」と思った。現にその家は会社から直ぐに退去の命令が出た。あまり吉祥寺に良い思い出はない。

 私達が出て行って直ぐ後、吉祥寺は古い大きな家が取り壊され、新しくアパートや単身者用のマンションが沢山建って人の出入りが激しくなったそうだ。駅近くに単身者の気持ちを紛らす遊戯施設が沢山増えて行ったのもその頃だ。

 殺人事件の報道を見て、久しぶりに住んでいた家に行ってみた。
元の貸し主の名札がかかっていた。母が私を連れて逃げ込んだ酒屋もまだあった。
そしてすぐ近く、歩いて数メートルで殺人現場だ。
私は母の咄嗟の機転で九死に一生を得たが、それが得られず「なんで私が...」と叫び声すら上げられずに若い命を絶った女性がいる。その事が悲しい。

 現場にはお友達だという女の子が泣きながら花を備えていた。「どんな人でしたか?」と尋ねてもなきじゃくるばかりだった。

 壮麗な住宅街の中に潜む孤独、単身者の孤独、そんなものを引き寄せるように吉祥寺は今夜もネオンで輝いていた。(了)



          被害者のお友達だという女の子達。最初は中々この現場に近づく事が出来ず、反対側の歩道でずっと泣いていた。

ともだち
通りがかりの人も手を合わせる。下校の小学生達も献花に向かって手を合わせていた。


慰霊

母が私を連れて駆け込んだ酒屋。生憎、閉まっていた。
 
酒屋